個人的見解をみんなの見解として表明する輩に

タイトルのままですが。

とりあえず、個人の願望とか欲望をみんなというわけわからない代物にくるんで表明するのにちょっとうんざりした話です。

大体、こういうことを言う人には、みんなって誰よ、というと沈黙し、挙がったみんなは瞬間的に雲散霧消するのですが、そういう第一次フィルターをかけずに、「みんながそう言ってるなら頑張っちゃうぞー」って動いてしまうと、もう大変です。


そんなことを言う輩は公式、非公式問わず色んなルートにいうし、みんなの範囲を自由自在、柔軟に変えてきますから、「みんな」という群れが量産され、みんなの群雄割拠が始まります。乱世です。


そのくせ、じゃああなたが好きなようにやってくださいよ、というと、言いだしたのは自分ではないと言って、みんなから自分を緊急離脱させるんですよねぇ…。


という事例を先月くらいに目撃したものの、相手が「みんな」の超級使い手のような人でして、大体、直接対決する機会にも恵まれないので、どうしたものかと。

さっさと無理やりにでも責任取らせるポジションかなんかにつけるのが手っ取り早いかしら…と思案中です。

アウトプットを出すために必要なもの

さて、前回日記を書いてからしばらく経ちました。

この間、公私ともにドタバタとしており、いやはや何とも…といった状態になっており、全くもってこちらに手が回らず…。

 

となったので、こういった日記を書けなくなるのはなぜか、というのをつらつらと考えてみました。

 

1.インプットが無い

入力するものが無ければ吐き出すものもない、という感じですね。割と当たり前の話ではありますが…。

 

2.アウトプットする体制が整っていない

インプットがあっても、アウトプットするための準備が別で必要になるように感じます。

例えば、それはインプットを翻訳するための手間だったり、アウトプットとして書き出すための手間だったり、そういった準備ですね。

また、体制とは別に気持ち的に何かを出したい、という心の準備がないと書き出せない、という感じになる気がします。

これがドタバタしていくと、私の場合はもういいや…となるので、本当に安定的に面白い話を書ける、というのはこういったアウトプットに関するリソースの使い方や配分のスキルが高いんだろうなぁという気がします。

プロマネの突き上げ方に関する小考

このところ、前任者から引き継いだプロジェクトを進めているのですが、プロマネがタスクの大分割するまではいいんですが、その先、どれがどの程度コスト(人数・時間数)がかかるのか、いつまでに終わらせないといけないのか、どういう関連性をもって、どの手順で処理をしていくべきか、というのが全くもって提示されず、プロジェクトの全体像が柔らか杏仁豆腐状態の体を示しております。そのくせ、締切については意識が高く、2週間ほど経過すると1か月手前じゃないといけないとか言い出す始末でして。

 

嘆いていてもしょうがないので、そろそろプロマネを操縦するための手立てを考えないといけないのですが、意外にプロマネを下から突き上げる方法ってどこにも載っていないんですよね…。

 

ということで、プロマネを下から突き上げる方法をざっくりと考えてみます。

 

1.全体像を説明させる、各タスクの連関を示させ、手順を明確にする

作業内容の背景にある全体像を理解させるために、タスクに分ける+区分のルール・他のタスクとの関連性に関する説明を求めることで、案件の全体像を理解してもらうことができるのではないか。

2.各タスク担当者から想定される課題を提示し、それに対して、どういったソリューション・方向性での検討が有効かを考えさせる

問題がどういったところに存在しているのかも分かっていないケースがあるので、それをちゃんと上に伝えるとともに、安易に解決するのではなくて、ちゃんと上に考えさせるというプロセスを設ける。

3.いざとなったらプロマネを切るくらいの力をつける

正直、これでもプロマネがダメだと思ったら、そのプロマネ自体を切るという選択肢を持ちたいところですね。。。(まあ、現実的にはほぼ不可能ですが、正直切って自分が成り代わっても大丈夫、という確信が持てるくらいまで行ければ、気持ち的には余裕ができます)

 

きっと、ここからプロマネを下から突き上げる方法については色々と考えていかないといけなくなってくるので、それについては引き続き考えてみたいと思います。。。

逆転の発想

本日、GW明けでしたが、いやはや満員電車がきついのなんの…と思っていたのですが、途中の駅から学生さん?らしきグループが乗り込んできまして、満員電車で「やばーい」・「うごけなーい」と盛り上がっているのを見て、これを楽しめるイベントとして受け止められる発想力におみそれした次第です。

そんな一方、私はGW明けで妙に社会人力が低下しており(デスクにいても全然集中が続かないし、定時でなんかへとへと…)、現実に戻っていない社会人をやっていたのですが、帰宅後も社会人力の低下が抜けず、はてさて…と思っていたら、風邪をひいている模様。そりゃぁ、きついわ。

何でもかんでも休日明けでだるいわー、というせいにしてはいけないということを学びました。いずれにせよ、さっさと養生しなくては…。

 

キャリアプランなんて考えたことないやー…というお話

この前、チームの年間スケジュールを組む話が立ち上がり、メンバーの人に今年1年何がしたい?という話を聞くことになったのですが。これがまぁ、うまく聞けない。恐ろしいほどうまく聞けないし、何聞いていいかわかんない。

というわけで、そのMTGはここ数年参加したMTGの中で屈指のグダグダ感を醸し出すことに成功し、久しぶりに反省会レベルのことをしました。

 

それにしても人のキャリアプラン・やりがいなんて他人が考えてもどうしようもないんじゃないかと。それに、大体考えたところで、それ通りになるわけでは全くなく、大体予想外の所に落ち着くというのがオチというケースが相当程度あるような気がします。大体、世の中理不尽でして、希望通りに行かないことの方が大半なのですから、長期的な計画を練らなきゃだめ、だけれども、それの実現可能性は微妙・お約束できない、という状態でキャリアプランを考えろ、という話をしても、いまいち説得力に欠けるという話ではないかと思うわけです。

そんなことよりも、ちゃんと上位者が方向づけや将来的にどういった組織にするのか、何を実現したいのか、どう実現するのかということを説明する方がよっぽど、キャリアを考える材料になるのではないかと思います。

 

ちなみに、私自身は、社会人になってから数年間は1年計画を立てていましたが、4年目くらいで諦めました。大体合わないし、それ通りにならないし、それよりもわけわかんないキャリアに入っていることが多いので。。。

だって、とある資格専門職で入ったのに、直近のお仕事は社内システム構築という、知人5人中5人(うちSE系が2名)に「それってSEじゃね??」という疑問を呈されるキャリアですよ?

正直こんなキャリアになるなんて、1年前には想定すらしてないし、できないっちゅーねん。

 

なので、長期的なキャリアを考えるというのも一案ではありますが、一方で、よくわからないけど出たとこ勝負でやっていくというのも一つの方法ではあると思います。お陰さまで、本職をずーっとやっていてもできないこと、経験者として転職できるところまで来たりするのですから。好き嫌いでは絶対に選ばないルートが実は性に合っている、ということも、レアケースですがあったりするので。

細々書評 ロバート・H・フランク「成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学」

繁忙期絶頂に終わりが見えてきたので、久方ぶりに本屋に行き、本を大量に衝動買いへ。不定期に読みたくなり、数冊買い込み、家で一気に読む、というスタイルなのですが、今回買ったのはこちら。

 

ロバート・H・フランク成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学」

 

ざっと流し読みという感じではありますが、実力主義に対する批判、という面では非常に納得感があります。過去のポストでも人を評価することについて、能力が高いというのをどう図るのかという話を書いた記憶がありますが、それに近いものがあります。

この場合は能力があるから成功するわけではない、という議論ですが、いずれにせよ能力↔成果・利得というのが必ずしも画一的に決まるわけではない、という意味では相通じるものがあるように思われます。

そのあと、この本の叙述としては、環境要因(運・偶然)の要素だったり、そのために公共財を充実させることの重要性、に近い話へと進んでいきます。

 

という本論はさておき、個人的に思うのは、この運や偶然というのを拾う、という力・機会を提供した場合に、みんなが同等にそれを拾得・利用することができるのか、という点。本書の前提では、機会の不均衡等を前提としている一方、同一の機会が与えられた場合にそれを万人が生かすことができるのか、という利用者側のボラティリティはあまり触れられていない(たぶん、それを突き詰めると批判すべき対象である実力主義に関する議論になっていくことから触れていないように思いますが)点。

個人的には、そういった機会の確保を行う一方で、運・偶然という得体のしれないものを見つける・拾えるようにするために備えるように努めるか否か、という点も大事な気がします。そういう意味だと、私は本書の主張よりもかなり実力主義的ではあるように感じます。

 

誰の話とは言いませんが、数年経ったら転職もしていないのにガラッと業種が変わる、ということもあるわけでして、そういった際にそれに適応できるかどうか、みたいなのはある種、それまでにどんだけそういった白紙に戻されるというか、一から積み上げなきゃいけない経験を積んでいるかによるような気はします。とはいえ、これまた誰の話とは言いませんが、3年ほど努力しても全く芽が出ず、挙句人間関係のストレスで十二指腸潰瘍になる、ということもあるので、やっぱり運かなぁというところは大いにわかる話ですね。

運営・管理に関する目標設定(あるいは愚痴)

最近、働き方改革が巷に喧伝される中、ひっそりと部門内でも業務・労務管理を進めようというプロジェクトが始まりました。

その中で、業務のアロケーション・スケジュール管理をまとめ(季節的労働に近いので、きちんとしたシステムはなく手作業ですorz)、業務の配分をしているのですが、数百に及ぶプロジェクトをまとめる・調整する、というのを最初の試案では実装していたものの、担当者の変更に伴いゴールが「各担当者の残業時間の再配分と最小化」から「法定残業時間を超過しない」という形に変更されているのを見て、やれやれと思っておる次第です。

そういった発想の転換により、前者は最適化問題、後者は禁則事項に触れなければどうあってもOK、という形で問題の定義は置き換えられ、複数の回答が量産できる体制が構築されました(最適解であるとは言っていません)。

いずれの問題の立て方でも間違っているわけではありませんが、制約条件が合法ラインギリギリの線で設定されているところには、よりよい最適解が出せる可能性が高いにも関わらずそれを模索しないという点で、怠慢が疑われ、少々納得がいかない、という所であります。

また、前提にある1日当たりの勤務時間のMaxに関する定義が大分担当者間で見解が違っておりまして、管理する側と管理される側との溝はこうしてできていくんだなぁということをリアルで実感できる大変良いCaseとなっております。これが社会レベルになると資本家による搾取と労働者の連帯による抗争…といった話になっていく…のかもしれません。

最初の案の時に、新担当者にもう少し仕事をぎちぎちに詰めておくべきだったというのは素案を担当した小生の反省点であります。

ちゃんと、配分の結果が自分の楽さに繋がるように設計しておく、当事者意識を持たせるということがプロジェクト管理をするにおけるレベル感・ディテールをどこまで詰めるかというモチベーションにもつながるのではないか、ということをリアルに気づけたのは良い発見だと思います。

そのゆるゆるな管理からは脱して自治権を獲得することを目標にしたいと思っていますが、同時並行をさせてみて、どっちの方が成果的には良いのか(上限を決めてハードルを越えない形で管理、最適解を追及する)、という点は振り返ってみると面白いかもしれないと思っています。